要 約
名誉毀損罪又は侮辱罪の被害者となる者は特定した人又は人格を有する団体でなければならず、東京市民とか九州人というような漠然とした表示では名誉毀損罪又は侮辱罪は成立しない。
事 実
第２審判決の認定したる事實左の如し
被告人等は孰れも水平社員にして被告人彌三郎は大日本水平社關東代表兼栃木縣水平社本部代表被告人寅藏岩藏は孰れも栃木縣水平社本部の臨時代表被告人貞三郎は同縣安蘇郡旗川村大字免鳥水平社代表被告人茂吉は同郡犬伏町字富岡新田水平社代表なるが右水平社は差別の撤廃を標榜し若し同社員に對し因襲的侮辱の言を弄する者あるときは徹底的糾彈と稱して嚴重に之を詰責し且多數の謝罪状を要求する等の事を爲し來り已に同縣水平社員中にも徹底的糾彈に名を藉り暴行又は脅迫を敢てし數千枚の謝罪状を要求したること數囘の多きに上り一般世人が著しく其の糾彈を恐れ居るを奇貨とし第1、大正12年９月20日海老沼某は安蘇郡犬伏町大字西浦石崎某方戸袋に被告人彌三郎が同郡選出栃木縣縣會議員候補者として同町大字犬伏光徳寺に於て政見發表演説會を開催する旨の廣告を貼付し居たる際同町甲が其の傍にて該廣告を見て「カボー寺」の演説かと獨語するを関知し大に之を憤り其の住所氏名を問い「今は選擧にて多忙なるも選擧後には糾彈に來るべし」と告げ直に其の旨を被告人寅藏に語り同日居字内水平社員の一同に之を傅え玆に被告人寅藏岩藏千吉清八は豊吉等と相謀り甲を糾彈して謝罪状を交付せしめんと企て同月23日正午頃外數名と共に相前後して甲宅に至り豊吉寅藏岩藏外２名は屋内に入り他は屋外に殘り先ず豊吉は甲に對し「先日廣告ビラを貼り居たる際カボー寺と云いしは何等か故あるが爲ならん」と言い同人の左頭部を右手にして毆打し次で重藏は「故なくカボー寺と云う筈なし本日は本部より糾弾に來りしなり」と告げ甲が被告等の言動に恐れ只菅自己失言を陳謝したるに拘らず寅藏は「斯る馬鹿はない低能にして事理に解せざる野郎なり」と云い同人の左頭部を右手指物にて２、３囘強く押付け一方屋外に居れる千吉外數名は「野郎を引摺り出し沼の水を呑ませ」と叫びて之に聲援したり其の際該失言問題に付解決の勞を取らんとして犬伏町青年團長須藤某同町大字西浦青年會長川田某同町大字犬伏青年團第１支部長若田部某の３名が其の場に馳せ來り仲裁人として更に甲の失言に付謝罪したる上甲は無學無資産の者なるを以て穏便に解決し呉れんことを懇請したるに寅藏は甲は現在は貧乏なりとするも曾ては消防組頭町會議員等をも爲したるものなれば容易に勘辯し難し」と言い更に甲の長男にして小學校教員なる乙が被告人等の同家に至りし當時在宅したるに其の後不在と爲りたるを知り「父の糾彈せらるるを見ながら之を顧みずして他出するが如きは不都合なり父同様乙をも糾彈すべし早く乙も出せ」と叱咤し肩を怒らし甲の傍に摺り寄り將に暴行に及ばんとする態度を示し岩藏も亦「乙を許す能わず」と言い之に唱和して氣勢を添え次で寅藏は右仲裁人等に對し「乙は何時歸るやも知り難きを以て甲の失言に對する謝罪方法に關しては富岡新田の水平社員に話し置くべければ乙歸宅の上同人を伴い富岡新田に來るべし」と告げ一同甲方を立去り其の歸途寅藏岩藏は豊吉宅に立寄り同人宅に参集し居たる豊吉清八は千吉等に對し甲等より謝罪状を交付せしむべく其の一切を委任する旨を告げたるにより豊吉千吉清八は同夜同家に會合したる被告人茂平久平外數名と共に右須藤某等の來るを待ち同日午後10時頃仲裁人なる前記須藤川田及若田部の３名が乙を伴い豊吉宅に來り先ず乙及仲裁人より被告等一同に對し甲の失言を陳謝するや豊吉千吉清八等は「本部の方針としては１萬枚の謝罪状を取り置く様にとのことなるを以て１萬枚の謝罪状を提供すべし」と迫り豊吉は其の謝罪状の見本なりとて活版刷の謝罪状を示したるにより仲裁人等は甲方の生計極めて困難なる旨を訴え其の紙數の減額を懇請したるに豊吉千吉清八等は「然らば５千枚に減額し遣るべし」と言い仲裁人等は更に１千枚に減額し呉れんことを申入れしに容易に之を肯き入れず遂に茂吉の發議に基き表面５千枚内實２千枚の謝罪状を交付すべきことを強要し其の際被告人文吉が酒氣を帯び其の場に入り來り「只今本部の者に會いたるが徹底的に糾彈を爲し呉れよとの事なりしを以て断じて１萬枚を下すべからず」と叫び氣勢を添えたる爲乙は同日豊吉等が自宅に來り父甲に對し糾彈を爲したる時の態度を見居り且曾て佐野町の者が水平社員に對し悪口を爲したるが爲毆打せられたることを聞知し居たる等の爲若し此の場合被告人の要求に應ぜざるに於ては同人父子に於て如何なる暴行を受くるやも計り難きを慮り畏怖の餘遂に右要求に應じ前記紙數の謝罪状を交付せんことを承諾したるに豊吉は更に外數名と共に該感謝状には乙も連署すべきことを要求し一同之に和し仲裁人等は失言の責なき乙の連署を要求するは不當なりと主張せるも親の失言に對しては子も亦共に責任を負擔せざるべからずと迫りたるにより乙は前同様畏怖の極事の圓満に解決せんことを欲し止むなく之をも承諾し一方甲は仲裁人川田より同夜顚末を聞知し其の結果乙同様被告人等の要求に應ぜざるに於ては同人父子が危害を蒙る恐あるべきを慮り畏怖の餘右感謝状の交付を承諾し遂に同月４日豊吉は自宅に於て前記約旨に基き甲より「10月３日付甲及伜乙名義にて９月24日水平社同人に對し侮辱的言辞を弄したることを深く陳謝し今後は決して斯る言動に出づることなく若し再び之を敢てしたるときは如何なる行動に出らるるも異議なし仍て５千枚の謝罪状を以て謝罪に及びたる旨」を印刷したる謝罪状２千枚（大正12年領第31號の10（と同一内容の物）を交付せしめ以て甲がカボー寺の演説がと言える漠然たる言辞を捕え未だ以て被告人等の名誉信用を毀損せられたりと言う能わざる之を毀損せられたるものの如く問責し且乙は此の言辞に付何等の關係なきに拘らず被告人寅藏岩藏清八千吉は共謀の上脅迫及暴行に依り甲及乙をして義務なきことを行わしめたり
上告理由
辯護人布施辰治上告趣意書第６點原判決は「辯護人は甲が『カボー寺』と云いたるは明に被告人等水平社員の名誉を毀損したるものにして之に對し謝罪を求め謝罪状の交付を迫るが如きは法律上當然認められたる権利行爲に属するを以て犯罪を構成するものにあらず」との主張に對し「審案するに『カボー』なる語は穢多の別稱として使用せらるる方言なるを以て甲が光徳寺に於ける演説の『ビラ』を見て『カボー』寺の演説かと云えるは例令不用意の際其の地方一般民の使用する慣用語に従いたるものとするに少くとも其の演説會場たる光徳寺を軽侮せるものと認められざるに非ず然れども之を以て直に其の檀家たる同村内居住者たる被告人等を侮辱せるものと断ずることを得ず況んや光徳寺と何等の關係なき被告人寅藏岩藏の如きは之が爲に毫も自己の名誉又は信用を毀損せられたるものと謂うを得ず云云」と判示し右主張を排斥したり然れども部落民は數百年以來一般民より差別的待遇を受け來りたるものにして向上發展の途なく空く悲憤の涙に暮し居りたるも明治大帝の聖勅に依り漸く此の差別的待遇を解かれたるも一般民は因襲に甚しき該聖詔宣下後既に50餘年を経過せる今日尚部落民に對し侮蔑的待遇を爲すものあり被告等は水平社を組織し解放運動を爲すに至れる際「カボー寺」なる侮蔑的言辞を發するは假令該寺の檀家ならずとするも被告人等部落一般を侮辱したるものなること明かにして「カボー」なる一語は概括的部落民一般を侮辱し居る言辞なることは毫厘の疑なき所なりとす然るに原判決は「カボー」の下に「寺」を付したる爲光徳寺のみを侮辱したるものにして光徳寺に關係なきものを侮辱したるものにあらずと判示したるは餘に事理に暗きものと謂うべく右辯護人の主張排斥の理由となるものにあらず況んや嚴正公平なるべき裁判にして「カボー」寺なる一語は其の寺に關係ある者のみの侮辱となり他部落民には何等侮辱的言辞とならずと判決するが如きは部落民300萬人の思想を悪化せしむるの虞れあるものなるに於ておや既に然りとせば原判決は適法の理由を示さずして漫然辯護人の主張を排斥したるものと謂うべく理由不備の違法あり破棄すべきものと信ず
判決理由
明治４年太政官布告第448號を以て穢多の稱呼を廃止せられ四民平等と爲りたる今日に於て苟且にも我が同胞に對し差別的言辞を弄するが如きは四民平等同胞相愛の本義に悖るものにして恕すべからざること論を俟たざる所なれども之を法律上より観察するときは凡そ名誉毀損罪又は侮辱罪は或特定せる人又は人格を有する團體に對し其の名誉を毀損し又は之を侮辱するに依りて成立するものにして卽ち其の被害者は特定したるものなることを要し單に東京市民又は九州人と云うが如き漠然たる表示に依りて本罪の成立せしむるものに非ず原判決の認むる所に依れば甲は光徳寺に於ける演説會の路傍廣告を見て漠然カボー寺の演説かと獨語したる事實にして斯の如きは被告寅藏その他所謂水平社員の特定せる人に對し其の名誉を毀損し又は侮蔑を加えたるものに非ざることは其の語辭自體に徴し疑なき所なれば縦令右語辭に依りて間接に被告寅藏其の他特定せる水平社員の感情を害するの結果を生じたりとするも寅藏又は同社員に對する名誉毀損又は侮辱罪を構成せざるや論を俟たず原判決は此の趣旨に於て甲がカボー寺の演説かと獨語したるは被告人寅藏に對しては勿論其の属する所謂水平社員の名誉を毀損し又は侮辱したるものに非ずと認めたるものと解すべきを以て被告人寅藏は本件の行爲に何等の關係を有せざる甲長男乙に對しては勿論甲に對しても判示の如き謝罪状を要求するの権利を有せざるものと云わざるべからず然れば原判決の如く被告寅藏が甲及其の長男乙に對し暴行脅迫に依り感謝状を要求し同人等を畏怖せしめたる末之が交付を受け右两名をして義務なきことを行わしめたる行爲が刑法223條第１項の脅迫罪を構成するや論を俟たず従て原判決には理由不備若は擬律錯誤の不法なく論旨理由なし
