最大判昭23.7.29 昭和23年(れ)第168号:食糧管理法違反、物価統制令違反 刑集2巻9号1012頁

judgment 憲法判例
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要 約

公判廷における被告人の自白は、憲法38条3項の「本人の自白」に含まれない。

主 文

本件再上告を棄却する。

理 由

弁護人岡本共次郎の再上告趣意は「第2審の山形地方裁判所刑事部では、その判決理由で被告人は農業を営む者で米穀の生産者であるが、法定の除外事由がないのに(第1)営利の目的で⑴昭和21年度検査(うるち)玄米10俵を統制額から超過した代金で売渡し、⑵同21年9月30日前同粳玄米2俵を統制額から超過して譲渡し、(第2)前記業務に関し昭和21年9月末頃から同22年2月末頃までに昭和21年度自家生産粳精米1(こく)(しょう)を薪(さい)等と交換譲渡したと判示して、その証拠として被告人が、その公判廷で述べた判示と同趣旨の申立を採って被告人の所為は食糧管理法並びに物価統制令違反であるとして処罰した。よって右判決に対し、被告人は、右判決は犯罪事実を認定するのに、被告人の公判の供述を唯一の証拠とした明かに憲法第38条第3項に違反するもので、違法の判決であると、原審仙台高等裁判所に上告した。(しか)るに原審判決では、公判廷における供述を、唯一の証拠としても、憲法第38条第3項に違反するものではない、右憲法の条項は、公判廷以外に(おい)て被告人が自白した場合を()うので、公開の公判廷に於て被告人が何()の拘束を受けないで自由に意見を述べ得る場合は含まないとの理由で右上告の申立を棄却した。然れども右憲法の条項には何等の制限がないのみならず、公判廷に於ても被告人は被告人の身分として必ずしも自由に意見を述べ得るものではない。それは公判廷でもまたその他の場合でも変りない。要するに原判決は憲法の条項を誤解した違法の判決である。」と()うにある。

自白の問題は、日々の裁判の現実において最も重要な憲法問題の1つである。憲法第38条第3項には、「何人も、自己に不利益な唯一の証拠が本人の自白である場合には、有罪とされ、又は刑罰を科せられない」と定めている。この規定の趣旨は、一般に自白が往々にして、強制、(ごう)問、脅迫その他不当な干渉による恐怖と不安の下に、本人の真意と自由意思に反してなされる場合のあることを考慮した結果、被告人に不利益な証拠が本人の自白である場合には、他に適当なこれを裏書する補強証拠を必要とするものとし、若し自白が被告人に不利益な唯一の証拠である場合には、有罪の認定を受けることはないとしたものである。それは、罪ある者が時に処罰を免れることがあっても、罪なき者が時に処罰を受けるよりは、社会福祉のためによいという根本思想に基くものである。かくて真に罪なき者が処罰せられる危険を排除し、自白偏重と自白強要の弊を防止し、基本的人権の保護を期せんとしたものである。しかしながら、公判廷における被告人の自白は、身体の拘束をうけず、又強制、拷問、脅迫その他不当な干渉を受けることなく、自由の状態において供述されるものである。しかも、憲法第38条第1項によれば、「何人も自己に不利益な供述を強要されない」ことになっている。それ故、公判廷において被告人は、自己の真意に反してまで軽々しく自白し、真実にあらざる自己に不利益な供述をするようなことはないと見るのが相当であろう。又新憲法の下においては、被告人はいつでも弁護士を附け得られる建前になっているから、若し被告人が虚偽の自白をしたと認められる場合には、その弁護士は直ちに再(じん)問の方法によってこれを訂正せしめることもできるであろう。なお、公判廷の自白は、裁判所の直接審理に基くものである。従って、裁判所の面前でなされる自白は、被告人の発言、挙動、顏色、態度並びにこれらの変化等からも、その真実に合するか、否か、又、自発的な任意のものであるか、否かは、多くの場合において裁判所が他の証拠を待つまでもなく、自ら判断し得るものと言わなければならない。又、公判廷外の自白は、それ自身既に完結している自白であって、果していかなる状態において、いかなる事情の下に、いかなる動機から、いかにして供述が形成されたかの経路は全く不明であるが、公判廷の自白は、裁判所の面前で親しくつぎつぎに供述が展開されて行くものであるから、現行法の下では裁判所はその心証が得られるまで種々の面と観点から被告人を根掘り葉掘り十分訊問することもできるのである。そして、若し裁判所が心証を得なければ自白は(もと)より証拠価値がなく、裁判所が心証を得たときに初めて自白は証拠として役立つのである。従って、公判廷における被告人の自白が、裁判所の自由心証によって真実に合するものと認められる場合には、公判廷外における被告人の自白とは異り、更に他の補強証拠を要せずして犯罪事実の認定ができると解するのが相当である。すなわち、前記法条のいわゆる「本人の自白」には、公判廷における被告人の自白を含まないと解釈するを相当とする。

さらに、証拠価値論の見地から観察してみよう。⑴強制、拷問若しくは脅迫による自白又は不当に長く抑留若しくは拘禁された後の自白は、証拠能力を有しない(憲法第38条第2項)。かゝる種類の自白は、憲法上は全く信用力がなく全面的に証拠価値を否定せられておるから、これを証拠として断罪科刑することはできない。⑵その他の自白は、公判廷におけるものも又公判廷外におけるものも、等しく証拠能力を有するが、証拠価値にはおのずから差等が存する。その中公判廷外における自白は、強制、拷問若しくは脅迫による自白であるか否かが一般的に不明であり、前述の理由によって証拠価値が比較的少いものであるから、その自白の外に適当なこれを裏書する補強証拠が必要となる訳である。⑶これに反し、公判廷における自白は、前に詳述した理由によってその証拠価値が比較的多いものであるから、その自白が被告人に不利益な唯一の証拠である場合においてもこれを証拠として断罪科刑することができていい訳である。

往昔の裁判は、断罪に被告人の自白を必要条件とし、自白がなければ、処罰ができなかった時代がある。かかる制度の下においては、必然的に被告人の自白を強要するために拷問が行われるに至ることは当然であり、今日なお諸国に残存する多種多様の拷問器が如実にこれを実証している。この弊害を救うために、(イ)所罰には必ずしも自白を必要条件としなくなり、(ロ)被告人には自白を強要せられない沈黙の特権が認められ(憲法第38条第1項)(ハ)拷問等による自白には、証拠能力が認められなくなり(同条第2項)、かくて裁判手続の上に拷問等が漸次排除せられていったのである。されば、同条第3項の解釈として、拷問等によらざることが明白である公判廷の自白に、一般的、抽象的により多くの証拠価値を認め独立証拠性を認めると共に、拷問等によったか否かが不明である公判廷外の自白に、一般的、抽象的により少き証拠価値を認め補強証拠を要するものと解することは、(ごう)も拷問と自白の歴史に背反するところはなく、現行法制の下においては極めて合理的な妥当な解釈であると言わなければならない。又、()る時代においては、証人の供述も半証拠(ハーフ・プルーフ)の価値しかなく、2人の証人の供述が合致して初めて独立証拠価値を有した。米国憲法第3条第3項に、「何人も同一の犯行に対する2人の証人の証言又は公開の法廷における自白がなければ、(はん)逆罪によって処罰をうけることがない」とあるのもこの流を汲むもので、米国の叛逆罪においては証人1人の供述は半証拠の価値しかないが、被告人の公判廷における自白は、それだけで独立証拠の価値を認められている。(あるい)は「罪がない者でも色々複雑な原因から任意に自己に不利益な供述をすることがある」から、自白が唯一の証拠である場合には処罰できないという者があるが、これは誤りである。この論法をもってすれば、「証人でも色々複雑な原因から任意に(故意に)被告人に不利益な供述をすることがある」から、証人の供述が唯一の証拠である場合にも処罰できないという結論とならなければならない。しかし、わが憲法は明らかに証人の供述は唯一の証拠であっても独立証拠の価値を認め断罪し得るものとしている。これに対し、憲法第38条第3項においては、被告人の自白が唯一の証拠である場合には処罰できないものとしている。それ故、同項の意義は、証人の供述と被告人の自白の価値を何故に区別しているかの理由を深く究めることによってのみ真に理解され得る関係にある。そして、この区別は、(ひっ)(きょう)被告人の自白には拷問等の加わるおそれが濃厚であるに反し、証人の供述にはかかるおそれが濃厚でないという1点に要約することができる。されば、拷問等の加わらない公判廷の自白に一証人の供述と同様に独立証拠性を認めることは、現行法制の下においては、理の当然であると言うことができよう。証人の供述にも、被告人の自白にも同時に内在し得る不安(例えば色々の複雑な原因から任意に不利益な供述をすること)が、被告人の自白に内在することを理由として被告人の自白に独立証拠性を否定せんとするは、証人の供述に独立拠性を認めているわが憲法下においては、他に特別の立法なき限り到底是認することができない。それ故、被告人の自白に独立証拠性を否定し、補強証拠を必要とする場合は、拷問等の加わったか否かが不明である場合、すなわち公判廷外の自白に限られるのである。

さればと言って、公判廷における被告人の自白があったとしても、安易に直ちにこれを証拠として断罪し去るととは、早計であり固より許さるべきことではない。裁判の任に当る者は、飽くまで自由心証の下に自白の任意性、真実性につき自由心証を形成し得た場合においてのみ、断罪し、科刑し得るものであることを深く戒心しなければならぬ。自白規定を設けた憲法の精神もまたこゝにあると確信する。

本件第2審判決は、公判廷における被告人の自白を証拠として断罪したものであって、上述するがごとく違法はなく、原審上告審の判決もこれを是認したものであって、違法を認めることはできない。論旨は、それ故に理由がない。

以上の理由により、刑事訴訟法第446条に従い主文のとおり判決する。

この判決は、裁判官齋藤悠輔の補足意見、裁判官塚崎直義、同沢田竹治郎、同井上登、同栗山茂、同小谷勝重の各少数意見を除き、その他の裁判官一致の意見によるものである。

検察官 福尾彌太郎関与。

裁判官齋藤悠輔の補足意見

憲法第38条第3項並びに刑訴応急措置法第10条第3項は、有罪又は科刑手続における司法の作用に対し、個人の自由権を保障するため、自白すなわち強制、拷問若しくは脅迫による自白又はこれに準ずべき自白に(あた)らない全く任意になされた供述の証拠としての価値を制限した規定であって、公共の福祉を維持するため、個人の自由を制限した規定ではない。それ故、同条項は、刑事々件を終局的に決定する本案訴訟手続において、事件に対し原告、被告の両当事者間就中(なかんづく)被告人において異議すなわち争いある場合の規定であって、異議も争いもなく、裁判所も(また)これを相当と認め得るがごとき場合には、適用のない規定と解することができる。(けだ)しかかる場合には、訴訟上個人の自由権を何等害するものではなく、(かえっ)て、事件の証明を要求しない個人の自由意思に合致し、無用の手続と費用とを省くことができるからである。

そして被告人は、事件を終局的に決定する公平な裁判所の公開法廷においては、身体の拘束を受けず、自己に不利益な供述を強要されず、弁護人又は()佐人立会、補助の下に訴訟上検察官と全く対当の独立した人格者たる当事者として、事件に対し、自由に防(ぎょ)、弁解を()し、すべての証人に対して審問する機会を充分に与えられ、又、公費で自己のために強制手続により証人を求める権利を有する。それ故被告人の公判廷における自白は、一面、経験事実の報告的訴訟行為として、一種の人的証拠であると共に、他面、自己に不利益な原告官の事件に対する主張を認めて、これが証明を要求しない意思を表示した当事者的訴訟行為と見ることができるから、前述の争なき場合と言うことができる。従って裁判所が右のごとき被告人の意思表示たる公判廷における自白にして、被告人の真意に()で且つ真実に合致するものと認めるときは、前記条項の適用から除外される例外のものと解しても毫も、該条項を設けた立法趣旨に反するものではなく、(むし)ろ、国民を独立した人格者として尊重し、責任ある自由と権利とを保障した憲法(第13条・第12条参照)の根本精神にも適合するとするのである。

然るに、被告人の公判廷における自白を、単に証拠としてのみ観察し、公判外における自白(例えば刑法第42条・第80条・第93条・第170条・第173条)よりも常にその成立において確実であり、価値において真実に富むが故に、前記条項より除外すべしとする論は、前記条項が証拠の能力、すなわち成立に関係なく、証拠価値そのもののみを制限した趣旨に反し、それ自体矛盾とす(どう)着と強弁とを包蔵する不完全な説たるを免れない。

また、単に自白の往々危険と弊害とを伴うことのみを恐れて、公判廷における自白も公判外のそれと同じく、常に必ず同条項の自白に包含せられるとする論は、()も同条項が、司法に対する個人の自由権を保障した規定であることを看過した形式論で、個人の人格を無視し、当事者の自由意思に反して、その要求せざる無用の訴訟手続を強行せんとするものに(ほか)ならない。若しそれ、公益上疑わしき公判廷の自白を採るべからずとするならば、事件を終局的に決定する公平な裁判所の自由裁量に一任して何等妨げあるを見ないのである。

裁判官塚崎直義の少数意見

経験の教うる所によれば、被告人の自白はその公判廷に()けるものであっても、常に必ずしも真実に合するものとは限らない。搜査官に対する不実の自白が因となって、公判廷に於ても、従前の供述をその(まま)に繰返すことがある。小心な被告人中に往々これが実例を見る。又公判廷に於ける被告人の供述は形式的には何等威迫強要の加えられしことなき自由なものであるにしても、実際上は訊問者の態度並びに訊問の方法如何(いかん)によっては誘導(わい)曲せられ、又本人の感違いによって違外に事実に相違する自白をなすことがあるものである。それ故に人権尊重のために、100人の有罪者を逸するも1人の無()の罪人なからしむるの態度を国家の採るべき所とするならば、憲法第38条第3項の規定は、これを制限的に解すべきではない。

なお、被告人中には(まれ)に、義理恩義に()(はん)せられ(博徒間の被告事件に時々見受くるところである)又は自己の犯せる重大犯罪を隠秘せんがために、或は自己の悪名を後世に残さんとの企図の下に(この種類似の事件は大正末期にあった)故意に他人の犯罪を引受けて自白する者すらある。これ等は固より自ら好んで刑罰を招くものであって、(かく)の如き者は裁判所の誤判に対して不服を唱うべき権利はないであろう。然しながら、国家は飽くまで正義顕現の義務を有すべきものとすれば、被告人の不利益に帰すべき誤判を絶無ならしむるの趣旨に於て憲法第38条第3項の「本人の自白」の中には公判廷の自白も、これを包含するものと解すべきである。かく解することこそ、真に新憲法の大精神に添う所以(ゆえん)である。

裁判官沢田竹治郎の少数意見

日本国憲法が基本的人権の尊重と保障とについて、万全を期していることは、第3章国民の権利及び義務の題下に第10条乃至(ないし)第40条の31箇条に及ぶ多くの規定を設けていることでも明かである。特に検察裁判の職に在る者の不法不当な権限行使による基本的人権の侵害をいかに日本国憲法が重大視して、これを徹底的に根絶せんとしているかは、第31条乃至第39条の9箇条14項に(わた)る周到精緻な規定を設けていることからも明かにうかがわれる。日本国憲法がかように基本的人権を極度に尊重し保障し、その侵害に対し異常に敏感であり、潔癖であるのは、同法が英米の憲法理論を基調としていることによるのであることはいうまでもない。日本国憲法が英米の憲法理論を基調としていることは、その体裁、内容からもわかるが、制定の由(らい)、経過からも明かなところである。ところが基本的人権を尊重し保障するというからには、当然に罪ある者の免れることがあっても、罪のない者は1人でも罪し刑してはならないという原則が確立されなければならないわけである。なぜなれば、罪のない者が罪せられ刑せられるということは、いうまでもなく基本的人権の典型的な重大な侵害である。そしてこの侵害を看過することはいうまでもなく、基本的人権の尊重、保障を全面的に否定することを容認するものといわねばならぬからである。故に基本的人権の尊重と保障とを基礎的原則とする英米の憲法はいうまでもないが、この憲法理論を基調とし基本的人権の尊重と保障とを基礎原則としていることにおいて、英米憲法と毫も(けい)庭のない日本国憲法が、罪なき者は1人でも罪せられ、刑せられてはならないとする原則を肯定せなければならぬのは、当然の筋合である。そこで日本国憲法のこの原則を実践に移すためには、少くとも被告人に反証の提出とか、証拠に対する弁明とかの機会を充分に容易に且つ確実に与えることと、裁判官に被告人に不利益な証拠の採否と価値判断とに慎重の態度をとらせることに重点がおかるべきであることは、多言を要しない。されば、日本国憲法第37条、第38条はかゝる罪のない者は、1人たりとも罪し刑してはならぬとする原則を実践に移すために設けられた規定であって、殊に第38条は裁判官の証拠調についての自由心証主義に対して、右原則の確保に必要とする最少限度の制限を規定し、よって裁判官の証拠調に関する態度の慎重を要望する法意にでたものであることはいうをまたぬ。特に被告人に不利益な証拠が(ただ)一つしかない場合には、若しその証拠が真実に反し、証拠価値のないものであるとしたら、その証拠のみで断罪科刑すると、右原則を画餅に帰せしむる結果が必ずおこるのは、火を睹るより明かであるから、被告人に不利益な証拠が1つしかない場合には、この証拠に対する裁判官の価値判断の如何(いかん)によって、重大の結果をおこすことがないとは限らぬから、裁判官の自由心証に一任するよりも証拠として採用することを許さぬのが安全であって、かような証拠の代表的なものは、本人の自白であるとの法意から、同条第3項が設けられたのであると確信する。換言すれば、唯一の不利益な証拠が本人の自白であるというのに、これのみを証拠として罪を断じ、刑を科すことを裁判官に許すとしたとして、それでも日本国憲法の罪なき者は、1人たりとも罪し刑することとしてはならないという原則に触れる結果がおこらない。(すなわ)ち罪なき者は、絶対に罪せられ刑せられることがないというには、少くともこの唯一の証拠である本人の自白に対する裁判官の証拠価値の判断に寸毫の誤(びゅう)がない絶対に正確なものだということが必然の条件であることはいうをまたぬ。しかし本人の自白だからといって、その価値判断にかような正確さを裁判官に期待し得る理由も根拠もない。むしろ、かようなことは裁判官には不可能に近い難事であるといわねばならぬから、日本国憲法としては、かような困難のことを裁判官に求めることのかわりに、本人の自白を証拠として被告人を罪し刑することを裁判官にさせないという立法態度にでるのが当然であると考えられる。しかのみならず、日本国憲法が裁判官の自由心証に信頼して、被告人の自白のみを証拠として断罪科刑することを容認すると、とかく自白強要の弊害を醸成し、それがために、新に基本的人権の侵害がおこることはさけられないのである。それ故に、基本的人権の尊重に懸命である日本国憲法としては、この自白強要の弊害を根絶する態度をとらねばならぬのである。この見地からしても、日本国憲法としては本人の自白のみを唯一の証拠としては断罪科刑することを裁判官にさせないとする外に道がないのである。かような解釈をすると、不利益な唯一の証拠である本人の自白が、公判廷におけるものであると、公判廷外におけるものであるとを問わないといわなければならぬ。なぜなれば、公判廷における本人の自白に限りて、裁判官の証拠価値の判断に誤りが絶対にないとか、これのみを証拠として断罪科刑することを容認しても自白強要の弊害が絶対におこらないとかいうことは、実際上からも亦理論上からも到底肯定されないところであるからである。この規定をかように解釈をすると、罪を犯した者を罪し刑することのできないという不都合がおこるとか、日本国憲法が裁判官の職権行使に対して全幅の信頼感をおかないということを裏書をすることゝなるとかの非難はおこり得る。しかし日本国憲法が基本的人権の尊重と保障とを高調し、その当然の結果である罪なき者は1人たりとも、罪し刑してはならないという原則を厳守し、それを実践に移すためには、実際上罪の免れる者のできる不都合のおこることも亦裁判官の威信に多少の暗影を投ずることになることも当然さけられないことであるから、日本国憲法としては、これらの非難は固より予期もし、甘受もするところであろうと信ずる。

裁判官井上登の少数意見

私も初めは多数説(我々の合議における多数説で、公判廷における被告人の自白は、憲法第38条第3項、日本国憲法の施行に伴う刑事訴訟法の応急的措置に関する法律第10条第3項の「自白」に含まれないとする説、以下同じ)に合流していたのである。それは右各法条は英米の思想に基いてできた規定だから、その解釈には、英米法の思想、実例を充分参酌すべきだと思い、アメリカの実例や、ギルティの答弁の思想を頭に置いて考えていたからである。しかしその後何といっても我が国刑事訴訟法は、ギルティの答弁というものを認めていないことは明かだし、又一般的には認諾判決を認めて居る民事訴訟でも、人の身分関係等重要事項については、これを許さないこと等から見て、我が法制の下では、ギルティの思想を(もっ)て解釈することは()めなければいけないと考え直すに至った。

そしてギルティの観念を取り除いてしまっては、多数説は以下に述べる文理上の無理を押し切って、これを支持するに足るだけの根拠がないように思う。右各法文には、何等の制限もなく単に「自白」とあって、公判廷の自白を除外するような趣旨を汲み取り得べき字句は全然ない。その外、他のどの条文を見ても、右の如き除外例を認むべき法文上の根拠は少しも見当らない。多数説の主たる根拠は、公判廷においては被告人は全然身体の拘束を受けず、拷問、脅迫その他不当な干渉を受けないから、その自白は他の自白と価値が違うというにある。しかし前記各法条の第3項は、もともと拷問、脅迫等の不当な干渉の認められない自白に関する規定である。不当な干渉による自白は同法条第2項によって、証拠能力がないのである。これは自白以外に補強証拠があっても何でもそんなことに関係なく、頭から証拠にとれないのである。それ故補強証拠があれば、証拠にとっても(よろ)しいという第3項は、不当の干渉の認められない自白のみについての規定である。不当の干渉の認められない自白でも、他に補強証拠がない限り、自白だけで断罪してはいけないというのが、右規定の趣旨である。そうして見ると、公判廷の自白は、不当の干渉を受けないでなしたものだから、補強証拠がなくても宜しいという多数説の根拠は、(すこぶ)る薄弱とならざるを得ない。(もっと)も公判廷外の自白については、実際上不当の干渉があった場合でも、これを認むべき資料がないため、公判裁判所にはそのことがわからず証拠に採られることがないとは限らない。だから、それだけで断罪するのは危険である。然るに公判廷においては、被告人は身体の拘束を受けず、拷問その他不当の干渉を受けないことは確かだから、その自白については右のような危険が少いというのが多数説の1つの根拠である。それは、たしかにそうである。然し公判廷の自白については、不当の干渉がないことが確かだといっても、それは(ただ)、被告人が公判廷に居る間だけのことであり、且外形だけのことである。公判の前後及び心理的にはどんな干渉を受けて居るかわからない。例えば、今()に公判に出る前に拷問によって自白をした被告人があると仮定する。かゝる被告人は公判廷においても「公判で否認をすると、公判が済んで留置場え帰ってから、また、どんなひどい目に()わされるかもしれない」といったような恐怖心から、或は又「どうせ一度自白してしまった以上、公判廷で否認して見たところで、最早やなんにもなるまい」といったような諦めから、心にもない自白を続けることがないとはいえない。(なお)、又子分が親分の罪を背負い、或は会社の下役が重役から多額の金を(もら)って、その罪を引受けるというが如き例もないではない。かくの如き場合には、傍聴席から、親分や重役の目が光って居る場合も無論あるであろう。従って公判廷における自白でも、不当の干渉によるものが必ずしも無いとはいえない。虚偽の自白があり得ることは(もち)論である。固より公判廷の自白については、少くとも外形上不当の干渉が無いことは確かであり、又弁護人の補助もある。加之(しかのみならず)公判裁判所の裁判官が、直接審理をするのであるから、その真偽を判断し(やす)いことも、公判外の自白とは大分違う。(尤も第2審の裁判について第1審公判における自白も多数説にいう「公判廷の自白」の中に入るものとすれば、右直接審理の点は駄目になる。)従って多数説にもそれ相応の理由はある。私も敢てそれを否定するわけではない。只、それだけではまだ(前記の如く公判廷の自白にも虚偽のものが相当あり得ることが考えられる以上)法文上何等根拠がないに(かか)わらず、公判廷の自白を除外する趣旨と解するに足る充分の根拠とは思えないのである。尚、又これは全く私一個の推測であるが、多数説の背後には次のような実際上の理由が潜在して居るのではなかろうか。即ち真の犯人が捕えられ、自白までして居るに拘わらず補強証拠がないと、それだけで無罪にされ釈放されてしまう。これは(きょう)悪犯人の非常に多い我が国現今の社会状勢上(はなは)だ憂慮すべきではないかということである。これは全く重大なことで、非常に考えさせられるところである。戦後急激に増加した犯罪の数に対し、科学的捜査に関する施設は勿論警察検察陣営の量においても、決して充分とはいえない我が国の現状において、犯人検挙の任に当る人々の労苦は誠に言語に絶するものがあるであろう。そして数多き犯罪について、一々自白の外に必要な補強証拠を(そろ)えるということは、実に容易ならぬことであろう。しかし何といっても、これによって解釈をきめるわけには行かぬことだし、憲法の趣旨は100人の犯人を逸しても、1人の無辜を罰するなというにあることは明かであるから、この趣旨は尊重されなければなるまい。(尚、補強証拠といっても、犯罪事実の全部に亘ってこれを必要とするわけではないから()()なる程度のものを必要とするかについての解釈如何によっては、今(われ)(われ)が憂える程の困難は生じないかも知れないとも思う。)要するに、憲法の法文が無制限に自白といって居て、公判廷の自白を除外する趣旨の字句が全然無いこと及び前に書いたような第2項との関係から見て、多数説は文理上相当無理だと思はれるし、それを押し切って公判廷の自白を含まぬものと解するに足るだけの根拠はないように私には思われるのである。これが上来書いてきたところでもわかると思うが、私が多数説に対して相当の同情を持ちながら、これに賛同できない理由である。

裁判官栗山茂の少数意見

「何人も、自己に不利益な供述を強要されない」という黙秘の特権は、普通法の原則であり、又合衆国憲法(修正条項第5項)及び州憲法の採用している原則である。しかし日本国憲法の特色は第38条でこの原則だけを規定しないで、第2項と第3項とがことさら附加されていることである。そればかりでなく、我が刑事裁判上の自白は英米法の自白とは本質に於て異るものである。即ち日本国憲法第38条は、英米法に由来するけれども、同一の解釈を許されないことを看過してはならないものである。

黙秘の原則は、当初は宗教上及び政治上の反抗者(国王にとっては犯人である)を保護するのが目的であり、真実を隠す手段として(きゅう)問即ち訊問に対し黙秘をする特権として発達したものである。しかし、この原則が認められた政治上の理由がなくなり、自由が確立され拷問が不法となっても、(なお)且この特権を偏重せしめては、(いたずら)に罪ある者を保護する弊を生ずるのであった。従って罪ある者を罪があるとするためには、本人が黙秘の特権をすてゝ、任意に自己に不利益な供述をした場合には、その自白は証拠能力があるとするのが合理的である。そればかりでなく、被告人が誰からも強要されないで、自由にした供述である以上、それが唯一の証拠であっても裁判官の自由心証によって、それだけでも有罪とできるという解釈をとりうるわけである。けれども(すべ)ての裁判官が最も賢明な者ばかりでなく、又裁判官が自由心証主義に隠れて独断に陥り、真実の水準を低きに求めないとは誰も保証ができないものである。国家としてはこの自由心証の弊を防ぐために、自白が唯一の証拠であるときは、それだけで断罪科刑しえないと一律に制限するのが安全である。日本国憲法はかゝる黙秘の特権の解釈を制定法や裁判所に一任することを避けて、第38条に第2項と第3項とを設けて基本的人権の保障とした点に於て特色があるのである。即ち同条第2項は強要された自白が、真実に合すると否とを問はず、一律に証拠能力を否定したものである。その反面で黙秘の特権を偏重することを避けて、自白の任意性を肯定したものである。これと同時に同条第3項は自白の任意性を偏重することを避けて、自白の証拠価値の如何を問はず自白が唯一の証拠であるときは、一律にそれだけで断罪科刑しえないとしたのである。(いず)れも公の利益の()めに設けた制限である。

多数意見は英米法の公判廷の自白(即ち有罪の答弁)が自白の任意性と相反するものでない以上、我が裁判の公判廷の自白も同様に取扱って差支えないと解するようである。けれども有罪の答弁の制度は英法の刑事裁判制度それ自体として古くから存在するもので、「スチュアード」朝に至って確立された黙秘の特権も、この制度を前提として発達し解釈されているのである。同一裁判制度を採っていない我が国裁判の公判廷の自白とはその本質に於て異るものがある。英米法のいわゆる有罪の答弁は証明の(ほう)棄であって、審理の終結を意味するものである。(しか)もこの自白は裁判所が本人に黙秘の特権があることを認識させ且本人が自白の法律上の効果を認識した上のことである。我が国刑事裁判の自白は証明の抛棄でもなく、それで審理を終結せしむる建前のものでもなく、たゞ証拠の1つに過ぎないものである。(あたか)も英米法で無罪の答弁をして審理を受けている被告人が自白の法律上の効果を認識もしないでする供述を裁判官が自由心証の名の下に、それが唯一の証拠でもそれだけで有罪とし科刑しうるというのと同一結果となるものである。即ち我が刑事裁判の公判廷の自白は英米法の有罪の答弁ではないのである。多数意見が引用している合衆国憲法第3条第3項「何人も、同一の犯行に対する2人の証人の証言又は公開の法廷における自白がなければ、叛逆罪によって処罰されない。」という条項は、元来英国「チュウダー」の初期から叛逆罪の名の下に、被告人に証人と対質もさせず、又本人の自白もないのに処刑した専政に対する保障として出来たものであって、欧州大陸で発達した法定証拠主義の産物ではない。若しこの条項を法定証拠主義で解釈すれば、2人の証言で完全な1つの法定証拠になるに反し、被告人も亦証人として自己に不利益な供述をするのであるから、被告人の公判廷の自白は半分の価値の法定証拠であって、他の証拠で補強しなければ、完全な証拠として被告人を有罪とすることができないという結論に達し、多数意見の論拠をくつがえすことになるのである。紐育(ニューヨーク)州刑事訴訟法第395条はこの流を汲んでいるものとさえ言はれているものである。

多数意見は、証人の供述に独立証拠性を認める以上、被告人の自白に独立証拠性を否定すべきでないとするのである。しかし、証人の供述が被告人に不利益な唯一の証拠であっても、被告人には証人を審問する充分な機会が与えられるのである。(憲法第37条第2項)被告人の利益を擁護する点から又供述の真実性を認識しうる点から言っても、被告人が反対訊問をした不利益な証人の供述(それは原則として宣誓の下でされ且取消ができない)と被告人が自白としての法律上の効果を認識しないでした自己に不利益な供述(英米法の有罪の答弁ですら、裁判所の許可をえて取消しうるものである)との何れかで断罪するとすれば、前者は弾劾の制度により、後者は糺問の制度によって真実を発見するものである。両者の間に公正の観念から見て格段の差があることは否みえない。

多数意見は、公判廷の自白は強制に基かない事実が顕著であり、公判廷外の自白はその事実が明かでない為め、証拠価値が少いから補強を要するというのである。しかし、公判廷の自白にして証拠能力があっても、証拠価値のないものと、少いものと又多いものとがある。次に公判廷外の自白でも、例えば被告人が第1審の公判廷で自白をしたけれども第2審たる当公判廷で否認する場合或は他の裁判で証人として自己に不利益な供述をしたことがあったが、当公判廷で否認する場合の如き、何れも強制に基かない事実が顕著である。しかし多数意見によっても、これ等の自白は補強を必要とするものである。憲法第38条第3項は、証拠能力がある証拠の価値判断について(自白のうちには、それだけで充分有罪とすることができるものもあるであろうが)その価値の如何を問はず公の利益のために、一律に補強を必要としたものであること前述したところである。多数意見は自白の証拠能力と証拠価値との問題を混同している嫌いがある。証拠能力の有無は補強を許されない。証拠価値の軽重にして初めて補強の問題が生ずるのである。

最後に多数意見は、公判廷の自白に補強を必要とするには、他に特別の立法を要するというのである。しかし前に指摘したように、日本国憲法第38条は合衆国憲法のように、黙秘の原則(第1項)だけを規定していないのである。その第3項は「何人も、自己に不利益な唯一の証拠が本人の自白である場合には」と言って、公判廷の自白と否とに区別していない以上、凡ての自白を含ませるのに、これ以上の文句を要しないし、又これ以外に特別な立法を要しないことは明かである。然るに多数意見は、第3項の本人の自白には、公判廷の自白を含まないとして、同項を制限的に解釈せんとするのであるが、憲法上認められている国民の特権は、その利益に解すべきものであって、その不利益に解すべきものでないことは、憲法解釈の根本原則でなくてはならぬと信ずる。

憲法第38条第3項が、単に何人も、自己に不利益な唯一の証拠が本人の自白である場合には、有罪とされ又は刑罰を科せられないと規定したのは、理由があるのである。それは如何なる性質の(しこう)して如何なる程度の証拠で本人の自白を補強すべしとすることについて、自白の性質上一般的に規準を設けるのは至難の業であるから、これ以上別段の定めをするのを避けたものである。従って裁判官は、自白に応じて、その都度経験に則して、如何なる性質の、而して如何なる程度の証拠を以て、補強すべきかを判断すべきものと解すべきものである。

以上の理由により、本件第2審判決及びこれを是認した原審判決は、何れも憲法第38条第3項に違反せるものであって、破()を免れないものである。

裁判官小谷勝重の少数意見

糺問訴訟時代においては、自白は証拠の王と称して尊重せられ、その結果、有罪判決は被告人の自白か又は直接犯罪事実を実験した信頼すべき2人以上の証人を必要とする立法すら設けられた。しかし、重大犯罪は通常他人の確知し得べき情況下では行われないから、自然自白偏重となり、()いて拷問の弊を生じ、遂に拷問適法主義にまで発展した。19世紀以降漸次この制は廃止せられたが、(いま)だ糺問主義を蝉脱せず、被告人は訴訟法上真実供述の義務を有し虚言の罰が科せられた。被告人が完全に糺問の客体から免がれて、弾劾主義の下訴訟主体たる地位の確立されたのは近世のことに属する。而して以上糺問主義の弊より被告人を救う手段として、所謂沈黙の特権を之に附与されるに至ったことは、歴史上明らかな事実であろう。而して私の解するところでは、私が旧憲法下においては、被告人は()だ沈黙の自由があったに(とど)まったものと解するが、新憲法は基本的人権の一種として、実に之を保障するに至ったものである。即ち憲法第38条第1項は、この特権の宣言であり、同条第2項はこの特権の侵害された自白に対する証拠能力否定の規定であり、同条第3項は第2項の自白以外の一切の自白、即ちこの特権の拠棄及び特権の侵害された恐れのある自白に対する証拠価値の制限の規定と解せられるのであって、第1項は特権の宣言と憲法上の保障、第2、3項はこの特権の効果に対する憲法上の保障と信ぜられる。

()ず問題の核心に入るに先立ち、問題解明の基本理念として前提して置かねばならぬ事項がある。それは憲法本条は刑事訴訟の実体的真実発見主義や自由心証主義の対象となるものではないことである。蓋し、若し実体的真実発見主義の対象となるものならば、第2項の自白でも真実の自白は勿論あり得るのであり、(いわ)んや、第3項の自白亦素よりと謂わねばならぬ。又自由心証主義の対象となるものならば、憲法は勿論刑訴応急措置法上においても、かゝる規定を設けずとも、現行刑事訴訟法其のまゝでよいのであって、すべて裁判官の心証判断の問題に之を委すれば足るのである。然るに憲法にこの条項を()いた所以は、即ち、冒頭所述の如く、本案は実に糺問主義と拷問適法主義とによる国家権力によって虐たげられた人民の長い苦難と尊き犠牲とからなる厳粛なる歴史的背景に基ずく所産であって、刑事訴訟の訴訟主義等の対象物ではなく、実に近世民主主義の経験と理念とによる基本的人権に関する問題なのである。而して憲法本条各項のそれの地位は既に概説したとおりである。問題の核心に入ろう。即ち憲法第38条第3項の唯一の自白の中には公判廷における自白が()入るか、否かの点である。公判廷外の自白と公判廷における自白との差異は、多数論の主張するとおりに、成る程前者における自白は、その形成の過程が裁判所に不明であるが、後者におけるそれは裁判所において自由の状態において述べられたものであって、従って、一応その形成過程は裁判所に明らかになったものである点については、差異のあることは之を(りょう)承する。而してこの差異は、多数論主張の如く重要なる差異であることも之を認むるに(ちゅう)(ちょ)しない。しかしそれは裁判所の自由心証上における価値の範囲を一歩も出ない問題であって、自白そのものゝ本質上の差異の問題でもなく、又その自白の動機原因上の差異でもない。(そも)(そも)自白(一応裁判外の自白に限定する)の証拠価値を制限したのは、外界の力即ち不当の干渉が影響を与えているかも知れないとの考え方からである。それが明白であれば第2項で証拠能力がないが、不当の干渉の証明は、之を挙げることの殆んど至難の(わざ)であることは、永きに亘る人類の経験である。従って第2項自白の原因の証明せられたときは、証拠能力がないが、之が証明のない場合と(いえど)も、以上の影響を受けているかも知れないとの危険があるから、之が証拠が唯一の自白である場合には、その証拠価値に制限を加えて被告人を保護するの安全に越すものはないのである。次に公判廷における自白は成る程その供述自体には、公判廷だけとしての観察では、右外界の力は直接には関係していないように認められるかも知れない。しかし多年の経験と実際は既に公判廷に出頭するまでの或る時期或る場所で為した自白を、公判廷においてもその儘之を続けねばならない場合或は続ける場合若しくは続け得ることは争うことのできない事実に属する。このことは一旦自白したら容易に之を(ひるがえ)えすこと否、飜えしても之が裁判所の心証を得るまでの証明を挙げることの至難の業であることが、主たる原因であると謂わねばならぬ。(はた)して然らば自白の動機原因に至っては公判廷の内外を区外する確かな理由とは殆んどならないのである。従って亦自白の危険性は公判廷の内外の異なるによって少しも解決されないのである。若し()れ自由心証を(たて)として公判廷の内外により区別をするならば、公判廷外の自白においても、それが真実との裁判所の心証を構成するに足るものならば、この唯一の自白を証拠に採れないと謂う理由はないのである。刑事訴訟の極致は、一の無辜を出さないと同時に、一の無罪も出さないことにあると一応は言えるのである。しかし之は所詮不可能事なのである。裁判官は全能でなく又審理の手続及び証拠法上各種の制約を受けねばならないからである。従って矢張り刑事訴訟の理想は無罪を出すとも(えん)なからしむることに存する。憲法は長い歴史上の経験に基ずいて刑事被告人に沈黙の特権を与え且つ之を保障し之が侵害の結果の無効を宣言し更に疑わしき自白の採証を制限し、以って仮令(たとい)無罪出ずるとも寃なきを期しているものと謂うべきである。この憲法の精神に鑑みろとき、私は自由心証の下公判廷の内外に依って区別せんとする多数説には左(たん)することを得ないものである。

以下多数説の主張ぜらるゝ所論中、4、5の点について私の意見を述べる。

⑴ 被告人は公判廷では、何等身体の拘束を受けないと謂うけれども、被告人は第1審においては多く拘禁中のものであって、従って公判廷で身体の拘束を受けないとは、止だ審理の行われている時間だけであって、一度審理終らば彼を待てるは独り施錠捕縄のみでなく、(れい)()のそれである。かゝる状況を以って自由の環境とは言えないのである。のみならず、この環境のみに因っても自白形成の原因とならないとは何人も之を保障し得ないであろう。

⑵ 又多数説は、沈黙の特権あるもの軽々に自己に不利益な自白を為さずと見るのが相当であり、従ってその自白は自由心証の対象と為すに足ると謂うけれども沈黙の特権あり況んや所謂身体の拘束も受けず、強制、拷問、脅迫その他不当の干渉も受けていないに拘わらず、進んで自己に不利益な供述を為すが如きは、そこにはそれ相当の理由ありと判断するのも亦大いに理由ありと謂わねばならぬ。()かず、かゝる唯一の自白以外証拠なき場合においては、之を自由心証の対象外と為すの勝れるに如かないと思考するものである。又アレイメントの制度下において、無罪の答弁を為したる被告人が、後証人として供述するに当り自白したる場合の如き、弁護人は直ちに再訊問の方法に依り法律上有効に之を取消し得んも、我が刑事訴訟制下においては、被告人の為したる自白を弁護人が再訊問によって之を有効に取消し得る何等法律上理論上の根拠はない。矢張り一旦為したる自白は調書に記載され、取消せばその記載も亦為されるに止まるのであって、結局自白を為したと同一の結果となるものと思考する。

⑶ 公判廷の自白は直接審理に基ずくから、裁判所は被告人の発言、挙動、顔色、態度等の変化からも自白の真否及び任意のものであるか否かを判断し得るけれども、公判廷外の自白は、既に完結されたものであって、その経路は不明であると謂うのであるが、それは問題の解決点を自白心証主義のみにおいたか、又は自由心証主義の観点から見ての証拠価値論の差等であって、根本に唯一の自白の場合には自由心証主義を否定すべきか否かの根本問題の解決とはならないのである。若し夫れ自由、心証主義を適用すべしと謂われるならば、独り公判廷の自白のみに限定する理由は立たないものと信ずる。

⑷ 多数説は、その理念の基礎を自由心証主義に措かれて、すべて之から見た証拠価値の比較論に終始せらているものと解せらるゝところであるが、この点抑々私の反対せざるを得ないところである。即ち本問題の根柢は、基本的人権の保障から観た自白の本質論にあるものと信ずるのである。若し夫れ多数説の主張せらるゝ比較価値論からすれば、()述の如く要するに問題の焦点は憲法本条第2項以外の自白であって、しかもそれが自由心証に依って真実と認められるか否かに存するものと認められるから、若しそうだとすれば、本条第3項の自白を(ひと)り公判廷の自白に限定する理由を発見し得ないのであつて、換言すれば第2項以外の自白であって自由心証に依り真実の自白と認め得らるゝ限りは、公判廷の自白と然らざる自白との間に多数説の(ここ)に論ずる証拠価値及びその比較に、何等の差等も優劣もないものと謂わねばならぬものと私は思料する。

⑸ 拷問と自白の歴史については、先きに私が一(べつ)を与えたところであり、その他の議論は依然証拠価値の比較論である。証拠価値の多少は自由心証主義から来るものであって、少しも根本問題と認めらるゝ自白そのものの本質論には触れてはいないのである。

⑹ 多数説は自白と証言との比較価値論を展開され、その結論として1人の証言で有罪とせられるならば、拷問等の加わらない公判廷の自白に一証人の供述と同様に独立証拠性を認めることは、現行法制の下においては理の当然であると謂うのであるが、この論旨には私は全面的に反対を表せざるを得ない。なぜならば、被告人は有罪無罪の(がん)頭に立っている刑事被告人であり、沈黙の特権があり、不当なる干渉下の自白は証拠能力自体が否定され、又多くの場合拘束せられているのに対して、証人には絶対に沈黙の特権なく、否、原則として進んで真実を陳述せねばならぬ義務があるのであり、更に被告人は証人に対し充分なる審問権を有するところであって(憲法第37条第2項)しかも証人は被告人に不利益な証言を為すにおいては、その心証上の価値は、被告人の自白に対するものとは自から差異の存するところであり、本質的にも自由心証上にも両者の証拠価値は全く異るものである。

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